いつまで経っても人間の根っこは変わらない。
時間の問題ではない。
環境の問題でもないと思う。
ぐうたらはぐうたら。
全部人のせい。
娯楽も仕事も受け身。
それを覆い隠すのは社会性という必死で張った膜。
成長っていうのは、コアとなる部分にどんどん経験が肉付けされていくイメージ。
役に立つアイテムを取得するイメージ。
肉付けされて使用可能になったアイテムが増えれば増えるほど対応できる状況が広くなる。
でも使用する人間の核が変わるわけではないから、適さないアイテムもいっぱいある。
考えなしで何とかなるだろうということも全然変わらないなあ。
Twitterというフォーマットは思考をしなくても一応の形になるのですごくありがたい。
考えなくても一定のゴールにたどり着くんだもの。
書き散らすということ、しばらくしていない。
これも一種の運動みたいなもので、自発的に行わないとどんどん能力が落ちてくる。
書き散らしが続けば少しずつでも考えがまとまってくるものだ。
ここ5年くらいの私は精神でなく身体で動いている感覚。
たまには精神を働かせないと衰えが止まらなくなる。
外見を着飾ることはとうにやめた。
もう結婚もしているので外見でのアピール―そもそもそんなことしたことはないが、も用済みとなり。
妻一人との幸せを考えるだけでよくなった。
でも、表現という面でもそこで停滞をしてしまっていると感じた。
貪欲に何かを、何をかは分からないがどうにかなるかもしれないと思ってあがいて文章を書きたいと思っていたころの気持ち。あれを取り戻したい。
多くのものを吸収するには心も脳も固くなってしまった。
吸えるものはもう多くない。残念ながら。
ただ蓄積はある。それを利用しない手はないのだろう。
建付けが悪く、金具も錆びついた抽斗を、よいしょこらしょとガタガタさせて。
価値の不明なまましまってあった過去を再び見てみよう。