収束の話。

露地物の野菜という言葉がある。

kotobank.jp

ビニールハウスでなくて畑で育った作物ですよ、とのこと。
私はこれをずっと路地物だと間違って覚えていて、意味も道端の無人販売所で売ってる作物のことだと思っていた。勘違いにも整合性があろう。

私の認識での路地物の野菜はそこらじゅうにある(そういうタイプの東京に住んでいます)のもこの勘違いに拍車をかけていた。路地にあるんだもの。

先日人んちの庭先でピーマンを買った。
小ぶりでだいぶ丸みを帯びた可愛いものがゴロゴロと袋に詰められていた。100円。
チャリンとして家で焼いて食べたのだが、ああピーマンは唐辛子の仲間なんだなって感じる味だった。辛味はない、ピーマンの味なんだけれどもフレッシュだからなのか野生っぽさがあるのか、スーパーで売っているピーマンとはちょっと違う風味を感じた。
辛味はないんだけど空間の奥の方に「あれ?これもしかして辛いんじゃない?」と感じさせてくる味の気配のようなものが存在した。繰り返すが決して辛味はない。むしろ甘さがある。が、控室で辛味が準備運動している気がした。これが実に気持ちよかった。妻からも共感を得た。

獅子唐でたまにとても辛いものにあたるし、新潟の神楽南蛮なんかはキュートな見た目なくせしてトップスピードで鬼辛い。ピーマンは唐辛子の仲間なのである。www.city.nagaoka.niigata.jp

神楽南蛮は越後湯沢の駅構内でフジロックの帰りによく買ったものである。本当に容赦なく辛い。

ところで日記を書いていていつも迷うところなんだけれども文章の締めってどうすればいいんだろう。
小学校の作文なんかではいわゆる"良い"作文には必ず締めが要求されていたと思う、たぶん私はそれを今でも引きずっている。ふわっとしたりフェイドアウトしたりすることに後ろめたさを感じてしまうのだ。まあそうね、小学生がなんか抒情的な引きを使ってきたら先生としてもなんかイラっとするから矯正してやる!って思うかもしれない。私が先生であればした。私怨だ。才能が憎い。
それはともかく話のオチというものがしっかりしているとやはり収まりがいい。良い椅子に座った安心感がある。ただそれはしっかりしたオチだからであって、やる気は感じられるけど失敗しているものについては傍目で見てアチャーと声が出てしまいそうになる。いや声までは出ないな、PCに向かって独りなのに。
別にコントを書こうとしているわけではない人間にそこまで求めんなよと自分でも思うわけであるから、私とて一生懸命に文章の終わりをひねり出す必要はないはず。

そう、収束しない日記があってもいいのである。自己完結。